2010年03月27日

「立喰師列伝」に見る押井守の世界観。

立喰師列伝

先日、レンタルビデオ屋でまじめなビデオを探していると、ふとあるタイトルが目に飛び込んできました。
それは、押井守監督のアニメーション作品、「立喰師列伝(たちぐいしれつでん)」です。
そのタイトルを見た瞬間、今からちょうど4年前の記憶が蘇ってきました。
それは、知り合いの脚本家が「立喰師列伝」を映画館で鑑賞した後、つい立ち食い屋に行ってしまった程、良い映画だったと大絶賛していた事です。
その言葉を聞いた時、私の頭の中の“いつか観るべき映画リスト”にこの作品を入れておきました。
ところが、入れておいた事をすっかり忘れていた事も思い出してしまったのです。
そこで、また忘れてしまわないうちに観ておかねば!と思い、さっそく借りてきて、自宅でDVDを再生させてみたのですが・・・
う〜む、すでに冒頭から独特の世界観というか、これはなんとも言えない作品ですね。
確かにいい映画なのかもしれませんが、そう断言してしまうのはどうかという気もしました。

4年前の映画を今さら…といった感もありますが、いろいろと考えさせられる部分もあったので、「立喰師列伝」を鑑賞してみての感想を、素直に、思ったままに文章にしてみようと思います。




「立喰師列伝」に見る押井守の世界観





この映画の1秒24フレームを目にした瞬間、これが実写映画であるべきなのかアニメーション映画と呼ぶべきものか、否応無く選択を迫られる。
それは、オスギかピーコかを選択するという例えにはありえない、まさにアニメーションがアニメーションたるテーゼにも通呈する問題であり、ひとりのアニメーション監督の意地とプライドを懸けた己との戦いを見守る行為でもある。
つまり、作者がそう断言するのであれば、これをアニメーション映画というジャンルにカテゴライズする事に異論は無く、1秒間に24枚の“イラスト”が鮮やかな残像として宿り、その光景が燦然と高貴を放つであろうジャンルとして受け止めなければならない。





まずは映像表現に関してはどうだろうかと問われれば、薄っぺらな紙状のキャラクターがパタパタと動き回る様に、独特の表現方法を見て取れるが、これはどちらかというと使い慣れた手法であると言ってもよい。
押井守監督の過去の作品に共通項目を見出すならば、まさにそれはミニパトである。
このミニパトにも通ずる制作手法においては、通常のセルアニメーション制作よりも明らかに制作コストを削減できる事は、確信的推測の範疇に属する。
しかし、それに比例して映像クオリティが落ちるのかと問われれば、そんな事は皆無であると言っても過言では無い。
この映画の映像クオリティに関して言うなれば、少なくともアニメーション業界の人間からは高い評価を得ている。
人がアニメーションを鑑賞する動機は均一ではないが、業界人のそれに関して言うなら、映像クオリティこそは絶対にして唯一の動機である。
そして、そのクオリティを一定のラインで保ちつつ、短時間でそれを構築するにあたっては、スチール撮影の技術がひとつのカラクリと言えよう。
映像制作にあたって、その1フレームの描写に主観的な傾向が示される事が常であるとはいえ、動画素材に比べてスチール素材が、およそどのような使用目的であれ、加工の容易さ、さらには映像クオリティにおいて、圧倒的にアドバンテージを持っているであろう事は、参照しうる言説、叙述に現れる頻度の極端な傾向からも、容易に推測しうる。
つまり、このミニパト方は、映像クオリティと制作コストを共に犠牲にする事無く、“味”という言葉をもって、高次元でこれを核融合させたという意味においては最善のアイディアであると、そう言わざるをえない。





ストーリーに関してはどうだろうかと問われれば、これは各々の趣味趣向に大きく左右されるに他ならないが、これほどまでその在り方を巡って意見が分かれるアニメーションも珍しいと言えるだろう。
ただし、好む・好まざるに関わらず、この作品の脚本自体が難解な表現と長いナレーションによってのみ成り立ち、それがいつでも子守唄に擬態しうる事は、紛れも無い事実である。
私が、殺伐な渡世の道を辿り歩き、理屈の筋道の甲乙丙丁を論じた事無く、善は善、悪は悪と、アニメーションの性格をただ二つに区別する他を省みた事の無い峻烈な評論家になるならば、この作品には星ひとつも贈呈する事は出来ないであろうと執筆する可能性が限りなく100パーセントに近く、小数点以下が天文学的ケタ数にのぼる可能性は非常に高い。
可能性と言ってしまえば軟弱極まりないが、この確信的推測の信憑性は命を懸けるに値する。
命を懸ける・・・この言葉は、己の生死をも凌駕するものの存在が、偶発的事例では無く、必然であった事を証明する最たる一文である。
何かのために命を懸けるという事は、容易な事ではない。
例えば、芸人ならば名声のため、政治家ならば金のため、スポーツ選手ならばメダルのため、おじいちゃんなら孫のためと、命を懸けても惜しくないと思う対象はさまざまである。
それはあたかも、つぶ入りみかんジュースの缶の底に残ったつぶが一番美味であろう事のように、口には出さずとも、誰もが自然に受け入れている確信的事実である。
もちろんそれは、この作品を目にした誰もが、少なからず心中に抱くであろう事も容易に推測しうる。
にも関わらず、押井守がこのアニメーションを制作した意味とは何か。
実は押井守ディレクターが、押井守プロデューサーではないという、彼のレゾンデートル、伝統的メンタリティーと新たな時代の趣向性の双方にわたる、押井守というアニメーション監督の過渡性、もしくは無碍的傾向に関わる問題であるからこそであろう。
とどのつまりを言うならば、押井守は完璧なクリエーターであるという事である。
そして彼の作ったこの作品は、出演者やスタッフも含めて、その関係する全てが彼の集大成、もしくは彼そのものと言っても過言ではない。
もちろんこの作品を観る者にも、否応無くこれを要求される。
それは同時に、平成という時代に生まれた、いわゆる現代っ子と呼ばれるレイヤーには到底受け入れられない作品である事を意味する。
「うる星やつら」と「パトレイバー」が過去に存在するからこそ、「立喰師列伝」は評価の高い作品となりうるのだ。





さて、「立喰師列伝」を鑑賞してみての正直な感想を書いてみました。
恥ずかしながら、なんとも押井風で難解な表現になってしまった理由は、この映画を観てもらえば察していただけるかと思います。
また、長々と書いてはしまいましたが、私が言いたかったのは、
「この映画は、エンターテイメント性には欠けますが、予算の割には映像クオリティが高く、独創的なアニメーションでした。以上。」
という一文だけです。

難解なものをわかりやすく説明できる人と、わかりやすい事を難解に表現したがる人がいますが、押井守監督は完全に後者といえるでしょうね。
表現方法は人それぞれですから、ここまで個性的な作品を作る事が出来る能力はすばらしいし、周りのプレッシャーにも動じない芯のある考え方は、個人的に好きですけどね。
ただ、ジャッキー・チェンの映画のように、単純明快スカッと爽快な内容では無いので、この映画をこれから観ようと思っている人は注意が必要だし、気軽に人に勧める事もできません。
ムズカシイ言葉を長々と並べられたナレーションに、約1時間40分間耐える事ができる自信があれば、観て損は無い映画だと思いますよ。



P.S.
本編の内容とは直接関係ありませんが、作品の中で使われている挿入歌が、すべて昭和の歌謡曲っぽくていい味を出していたのはポイント高いです。
私が、単に昭和という時代を好き過ぎるだけかもしれませんが、見事にノスタルジックな気持ちを呼び起こしてくれました。
この曲を聴くために、もう一度この映画を鑑賞してもいいかな?と思わせてくれるぐらい、いい曲です。


posted by a2me at 11:44 | Comment(3) | TrackBack(0) | 各種レビュー記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
文章うまいですね。

例えとかがおもしろいです^
Posted by ひで at 2010年03月29日 06:55
「立喰師列伝」は、ひでさんにとっては退屈すぎる映画だと思いますので、絶対に観ないで下さいね。

…とか書いちゃうと、ひでさんの事だから絶対観そうですね。

やっぱり今でも「時計じかけのオレンジ」派ですか?
Posted by a2me at 2010年03月29日 18:27
今でも、「スタンリーキューブリック」派ですよ!^^
Posted by ひで at 2010年04月05日 03:52
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